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※写真はイメージです。

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2023.04.21

教育・文化芸術・科学コーナー第11回
エッセイ「父の思い出〜特大うな重〜」

 父渡辺寛一は、物部中、久下田中、真岡中などで教鞭を執り、昭和54年、芳賀町立水沼小学校校長として定年退職し、11年後の平成2年他界した。現職中、脳血栓で何度か倒れ、休職を繰り返しながらも、多くの教職員、御父兄、生徒達の温かい励まし、御支援で、定年まで勤め上げた。最後の数年は、手足、口が不自由になり、我々家族も見るに見かねて、早期退職を勧めたが、父は頑として聞かなかった。しかし、ある時、次のような話を耳にして、家族は早期退職を一切口にしなくなった。朝礼時、校長としての父の挨拶は、「本当に」以外何を言っているのか分からなかったが、その必死さ、生き様、児童を思う純真な姿に打たれ、涙する教職員、子ども達が少なからず居たという話であった。目頭を押さえながら、私達家族,は、父を誇りに思った。

 退職してから数ヶ月程して、父の慰労を兼ね、私と妻と、小学低学年の息子と娘の5人で、食事会を開く事になった。市内にあるフルーツショップの2階に、うな重で有名なレストランがオープンしたと耳にして、そこに行くことに決め、5人で出かけた。こぎれいな部屋に案内され、メニューを決めた。全員がうな重にするほど裕福ではなかったので、当然父がうな重で、後の4人は、廉価なメニューだったと思う。最初に4人の料理が運ばれて来て、少し経って父のうな重が運ばれて来た。蒲焼きの尻尾が大きくはみ出ていて、粗雑な盛り付けだと皆思ったが、口にする者は居なかった。妻が、「お父様、長い間ご苦労様でした」と言い、私と孫二人も、想像の遙か向こうにある父の刻苦に思いを馳せ、「ご苦労様でした」と心を込めて言った。全員で、「いただきます」と言い、父は、お重の蓋を開けた。尻尾が大きくはみ出ていたのは、盛り付けが粗雑ではなかったのだ。ただただ鰻が大きかったのだ。その時全員、余りの大きさに、思わず一斉に「ウォー」と歓声をあげた。部屋が揺れるほどの歓声であった。私は、その後40年、この時ほど純真に大歓声をあげたことはない。そして驚きと喜びで、破顔一笑の父の笑顔を今でも忘れる事はない。食が細っていたにもかかわらず、完食した父は「本当に美味しかったなあ」と、いつになくなめらかな口調で感想を述べてくれた。

 マタイによる福音書6章31「何を食べ、何を飲まんと煩うことなかれ」を座右の銘に、私は、学生時代から、母や妻が作ってくれるどんな料理でも、美味しいと言って食べる主義であるが、慰労会や祝賀会は例外なのであろう。皆が喜ぶ料理で、時には歓声をあげ、時には大笑いして、食事を楽しむ事も数年に一度は必要なのかも知れない。

 それにしても、あのうな重は本当に大きかった。引きずる足で必死に二階に這うように上がって行く父の姿を見て、お店の方が、有り難くも、特大うな重を特別に用意してくれたのであろうか。あの「ウォー」という歓声は、思い出すたびに、心の奥でこだまして止む事は無く、幸せを分かち合えた喜びと、父が居ない悲しさが僅かに溶け合って、胸を刺す。しかし、傷口から聞こえて来る山びこは、あの喜びの「ウォー」という歓声だからね、父よ。

●渡辺私塾会長 著述家 渡辺美術館館長 渡辺淑寛

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