幼少時、母が2歳上の兄の手を引き、私を背負って外出すると、通りすがりの方々は、兄を見て、「目がぱっちりしていて、本当にかわいいお子様ね」と褒めてくれたが、次に、母の背の私を見て、一瞬言葉に詰まり、低い声で「元気そうね」と言って立ち去ったらしい。鼻水が固まって顔半分がカベカベで、目や鼻の所在もはっきりせず、「元気そうね」としか言いようが無かったのだろう。この小汚ない赤子が、大学で美学美術史を学び、現在粗末ながらも美術館の館長をしているのであるから、自分でも不思議でならない。
小学4年生のある日までは、美術の時間は嫌いで、絵の宿題は苦痛でしかなかった。ところが、ある晴れた日、真岡小学校通学路途中の、田町の海潮寺を通りかかった時、正門にそびえ立つ大きな銀杏の木が朝日を浴びて黄金色に輝き、目映く、神々しく、細い目を一層細くして仰視し、しばらく立ち尽くした。そしてこの目映さ、神々しさ、この感動を何かに残したいと本能的に思った。その当時、小学4年生にとって、何かに残すとすれば絵を描くしか無かった。学校から帰ると、水彩絵の具を取り出し、一心不乱に銀杏を描き出した。余りに強烈に心に焼き付いているので、もう一度銀杏を見る必要もなかった。最初は絵の具を水に薄く溶いて描き出したが、あの黄白色の神々しさは水彩では表現できなかった。それで黄色と白の絵の具を油絵のように塗り重ねると、少し神々しさが画面に現れ、自分なりに満足できる出来栄えであった。ただ水彩絵の具で、こんな風に塗り固めたら、先生に叱られるだろうと思い、この絵の事は誰にも言わなかった。
しばらくして、真岡小学校内で美術展があり、全員一枚絵を提出しなければならず、いやな絵の宿題なので、非難覚悟で、あの秘密の銀杏の絵を提出した。各学年ごと、1位から3位までの審査発表の日、何と小汚ない私の、あの銀杏の絵が学年1位に選ばれたのだ。そして審査委員長のK先生は、全校生徒の前で、「銀杏の輝きを出すには、こんな風に塗り重ねるしか無かったのだろう、素晴らしい出来栄えだ。この子は将来立派な油絵画家になるであろう」と褒めてくれた。賞状や副賞を頂いた事より、遥かに嬉しかった事は、「こんな風に塗り重ねるしか無かったのだろう」という言葉であった。K先生は、「水彩画は水に薄く溶かして描く」事より、児童が好きなように自由に表現する事を重要視してくれたのだ。本当に嬉しかった。更に、学年時代、止むにやまれず、ほとばしるようにポールペン画を、数百枚描いた以外は、絵を描く事とは無縁だったが、運命のいたずらか、今娘が油絵を描いている。そして尊敬するK先生の御子息も美術の先生になられ、我が子の担任として、再度お世話になった。
中学生になっても、小汚なさは相変わらずで、良家のお坊ちゃまで慶応高に進学した色白の同級生は白豚とあだ名され、才能に溢れているがいつも顔を真っ赤にして怒っている友は、赤豚と呼ばれ、小汚ない私は黒豚で、3人合わせて三豚と言われた。赤豚が生徒会長、黒豚が副会長で、白豚は書記長であったように記憶している。蛇足ながら、黒豚であったから、今黒い服を着ているという訳ではない。
宇都宮大学工学部工業化学科に進学し、工学部執行委員全学中央委員などを務め、暴れん坊で粗野な黒豚でも、高度成長期であったためか、就職先は引く手あまたであった。その時、こまま会社に入り、社会人として会社のために働き抜いて、一生を終わらせて良いのだろうかと、生まれて初めて自分の人生を真剣に考えた。哲学、芸術、文学、政治経済、宇宙、文明など、お仕着せで無く、自分の頭で考えてみたい、真の勉強がしたいと本当に思った。それで父母にその思いを話し、向上心を高く評価していた父母にも快諾して頂き、名古屋大文学部に再入学した。名大入学後2年間でむさぼるように独学し、芸術以外はほぼ自分なりに学ぶ事が出来たので、3年進級時、哲学科美学美術史を専攻した。名大時、青学大英文科を卒業していた妻と学生結婚していて、妻が勤めていたデパートの絵画売り場で社員割引を利用して、54年前生まれて初めて絵を購入した。この銅版画は、記念として同美術館に展示してある。2点目の社員割引購入作品はワイズバッシュの版画で、いつの日かワイズバッシュの油彩画大作をと夢み、バブル崩壊後の絵画価格大暴落時50号油画を入手し、小さな夢は実現した。 工学士で顔料分析の出来る美学生など希有であったので、大学に残る予定でいたが、大恩ある父母の健康問題で、学術的栄光は一切捨て、ためらわず真岡に戻り、渡辺私塾を創設した。酒たばこはもちろん運転免許も持たず、妻と共にいくつかの夢を抱きながら、ただひたすら働いた。絵や稀覯本は、バブル前とバブル後に入手し。15年前、夢の一つ、久保研究所創設を実現し、更に、多くの方々の応援で、次々と夢は実現していく。
粗末ではあっても、美術館を開館する事、開館が実現したら入場無料にする事、入場無料が実現したら来館者様全員に、版画か本をプレゼントする事、出来るだけ多くの作品を展示する事など、不可能に近い夢だと思っていたが、何故か幸運と強運とが絡み合い、10年前の5月、50年来の大夢が成就した。
また、美術以外の小さな夢も不思議と神がかり的に実現した。43年前、糖尿病対策で始めたゴルフでも、1年でシングルに、3年で倶楽部チャンピオンになり日本アマにも出場できた。ゴルフをなさる方なら、この事が、いかに奇跡的で夢のような出来事か、お解りになるであろう。
更に、38年前に立ち上げた渡辺私塾文庫においても、財力に乏しく、情報の少ない地方在住でありながら、幸運が何度となく重なって、希少な稀覯本を少なからず蒐集出来た。9年前の7月、青森県日刊新聞陸奥新報の1面を大きく飾った江戸本「集古十種」もその一例である。母の背で、鼻水カベカベの鎧を着けて以来しぶとさと強運を身に付けたのかも知れない。
だが私にはまだ幾つかの夢がある。そしてその夢はきっと実現するだろう。私には、カベカベ黒豚をこよなく愛する幸運の女神がついているから。
●渡辺私塾会長 著述家 渡辺美術館館長 渡辺淑寛
< お問い合わせ > TEL.090-5559-2434