物心ついた頃から、私の大好物はカレーライスであった。理由は解らない。亡き母が、「としぼ、誕生日、何食べたい?」と言うと、「カレーに決まってっぺな」と、間髪を入れずに答えた。そして、小皿だが7杯平らげて、苦しさの余り、裏庭の柿の木の下に横になり、2時間ほど生死をさまようかのごとく唸りに唸っていた事を憶えている。それでも、何か事があると、母にカレーライスを作ってもらった。
栃木県特有の料理「しもつかれ」と同様、カレーライスは家々、店々で、全て味が異なる事を知っていたので、50年前、大学1年時、3週間の自転車旅行でも、食堂では必ずカレーライスを注文した。伊豆半島を巡り、長良川の川岸を疾走し、琵琶湖の西湖岸を回って、若狭湾に出て、新潟まで北上し、猪苗代湖の北を通って真岡に戻ってくる冒険に満ちた一人旅の3週間で、30回ほどカレーを注文したが、やはり母の作るカレーが一番美味しかった。母のカレーは、その当時市販のカレールーが無かったのか、小麦粉を色が付くまで炒めて作る、かなりドロッとしたカレーであったと記憶している。
その後家庭を持つ身になって、食事がカレーのときは、ほとんど私が作った。特に妻が何日か家を空ける時は、食事に困らないよう、必ず全食、私の作るカレーとなる。最長2週間カレーが続いた事もあった
が、飽きることはついぞ無かった。
いよいよ恐ろしい地獄カレーの作り方に入る。大きな鍋に、油は入れず豚肉、牛肉、鶏肉など余っている肉を沢山入れる。
そうそう、どんな文章でも思想性を入れないと気が済まない私の悪癖ゆえ、ここで少し寄り道をして良いだろうか。私は菜食主義者ではないので、肉もどんどん食べる。学生時代、友人の影響で菜食主義に興味を持った事もあったが、「マタイによる福音書、第6章31」、「何を食べ、何を飲み、何を着ようと、思いわずらうこと無かれ」という金言に出会って考え直した。それに、動物は食さないのに、何故、植物なら良いのだろうか、という疑問も持つようになった。屠殺される動物の苦しみと、根こそぎにされる植物の悲しみにどんな違いが有るのだろうか、という思いが心の片隅にいつも有った。屠殺の悲惨、苦痛は人間に近く、植物の一瞬の激痛は、人間の想像の遥か遠くに有るというだけで、その悲しみの深さは同じではないか、と思った。そして埴谷雄高の「死霊第7章」で、ガリラヤ湖の小魚を食したイエスキリストが、チーナカ豆を食べた釈迦牟尼仏陀が、魚や豆達に弾劾されるくだりを、戦慄を覚えながら読んだ時、確信した。イエスや仏陀でも逃れ得ぬ、食う食われるの食物連鎖の中で、人間は何かを食して生きねばならぬ無慈悲で因業な宿命を背負った存在なのだと。そして我々は、深い深い感謝とともに、その宿業を甘んじて引き受けて謙虚に生きていかねばならぬ存在なのだと。だから、目の前に出された食事は、天がお作りになった食事であり、食材に、料理してくれた方に心より感謝して、食べられる物の悲しみを喜びに変えて、優しい気持ちで噛み締めながら食べれば良いのだと。そして素材の動植物は、分子細胞レベルで我々と合体同化し、命が融合し、我らに生ある限り、我らの細胞内で、分子レベルで共に生きてゆくのだと思うようになった。何を食べ、何を飲もうと、思い煩う事は無くなった。
カレーの作り方に話を戻そう。油を入れないのは、肉から出る油だけの方が美味であり、カロリーを抑える意味もある。しっかり炒めたら、人参、牛蒡を皮をむかずに沢山入れ、しぶしぶ皮をむいたジャガイモを入れ、かき回すように炒めた後、手元に有る、冷蔵庫の下の方に隠れている、ありとあらゆる野菜を入れる。タマネギ、ネギ、キャベツ、白菜、ピーマン、ほうれん草、竹の子、えのき、しいたけ、舞茸、もやし、にら、キュウリ、林檎、小松菜、ナス、トマト、ブロッコリーなど、どんなものでも入れる。てんこ盛りになった野菜の上から、牛乳、水、ウスターソース、ヨーグルトを注ぎ、焦げ付かないように30分ほどしぶとくかき回す。最後に市販のルーとカレー粉と胡椒を入れて、少しアクを取ったふりをして、さあ、出来上がりだ。「さあ、出来上がり」と言っても、待っている者は私しかいないが、一向に気にしない。このカレーは、私による私のための私のカレーだからだ。特に牛蒡を沢山入れると、どんな薬よりも便秘には効果てきめんである。便秘でお困りのお方は一度お試しあれ。母のカレーよりかなりさらさらで、カロリーも思いのほか少なく、勇気のある人にとっては、最高の健康食である。私は、このカレーを食べ始めるとき、何故か、「カレーとは、野菜を食べる料理だっぺな」と、方言混じりに訛りに訛って独り言を言う。理由は解らない。
一度家族に食べてもらった事が有ったが、長い沈黙が続いた。その後、誰からともなく、「地獄カレー」というささやきが聞こえてきた。理由は解っている。
●渡辺私塾会長 著述家 渡辺美術館館長 渡辺淑寛
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