50数年前、静岡の地方を旅した時、至る所に自生している黄金色の柑橘類を見て、何故か言い知れぬ感動を覚えた事が有った。それは、五行川を遡る鮭の魚群を見た時の喜びと似てもいるが、「南方」を暗示する金色に輝く色彩をまとった歓喜の方がやはり大きかった。ゲーテが寒々としたドイツからブレンナー峠を抜けてイタリアの地でレモンやオレンジの黄金色に出会った時、その色彩感、南方感に酔いしれたと言われている。北関東に住む私にとっても、あの黄金色の歓喜は、似たような感動であったのかも知れない。
ゲーテの「ミニヨンの歌」の冒頭に
「Kennst du das Land,wo die Zitronenbluhen,..Im dunkeln Laub die Gold-Orangen gluhen....」という一節が有る。
英語では「Do you know the land,wherelemons bloom, in dark leaves gold-oranges glow...」和訳では「君は知っているか、レモンの花咲く国を。暗き葉陰に
も金色のオレンジが輝く国を、君は知っているか。」ぐらいか。(英訳、和訳とも筆者)余談だが、日本の公用語はフランス語にすべし、と言ったのは志賀直哉であったが、この独文、英文、和文を読み比べれば、表現にもよるが、和文もなかなか力強く捨てがたいと思える。
さて本題に入る。今年も玄関先に金柑がたわわに実った。木漏れ日の中、数多くの小さな金粒を見上げながら、ふと思った、ゲーテのようにレモンの花が見たいと。「思い立ったが吉日」ではないが、近くのホームセンターに直行し、レモンの実の付いた苗木を2本購入し、狭いが日当たりの良いところに植えた。正解かどうかは不明だが、少し深く掘り、腐葉土と水を入れ、土を被せてまた水を注いだ。翌日、まだ苗木を植える場所が有ることに気がつき、もう居ても立っても居られずレモンの苗木3本を購入し喜々として植えた。昔の歌の文句ではないが、こうなったら、「もうどうにも止まらない」。翌日に伊予柑の苗木を2本、翌々日甘夏の苗木と不知火の苗木各1本植えた。更に後日、控えめで可憐なリンゴの花が見たいと思い、リンゴの苗木を3本植えた。酒タバコは勿論、車も持たず交際費零の私なので、これぐらいのプチ贅沢は許されるであろう。
その日以来、晴れた日には毎朝、12本の苗木を見に外に出ているが、雨巻きの山々から吹く風の中、生育の兆しはまだだ。この苗木達は、北関東の厳しい冬を、果たして越せるであろうか。雪を背負って天に向かい屹立出来るであろうか。私にしても、この地上に居る間に、レモンの花や、リンゴの花を、果たして見られるのであろうか。いや、12本も植えたのだから、這ってでも生き延びて、レモンの花を、リンゴの花をこの目に焼き付けなければならない。
お、ふと気が付いた。何よりも貴重な生きる意欲を、この苗木達から、ゲーテから頂いていると。
●渡辺私塾会長 著述家 渡辺美術館館長 渡辺淑寛
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