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コラム

2024.03.16

煩悩の果てに

 毎日なんと無常で無情な出来事に囲まれて、それでも、宇宙の摂理はキチンとこの地球に季節の変化をもたらしてくれる。太陽のエネルギーで人類も、またその他の動植物も命を授かり幾何かの時間をその生命を謳歌できる仕組みになっている。然し個々の欲望が過剰になると争いが起きライバルと思しき存在物への攻撃所業が起き、それが人間社会の場合集団抗争となって、いわば滅っし合いが起きる。一人一人の個の存在が、心の何処かに自己制御や、自制心が働けば、少なくとも同じ人類同志の鬩(せめ)ぎ合い、はたまた殺し合いなどは消滅する筈なのだが、どうもそれがままならないのだ。時代の流れ、人類の残した歴史の過程で多くの先人がこれら人類自体に発生する悪しき所業を無くそうとする努力の足跡を我々今日を生きる者は知ることができる。敢えて学ぶこともできる。考えてみればごく当たり前のことで、これらの認識は、つまり、毎日の生活の安寧が基本となる訳で、この安寧を得るために個々の人間はある種の自己制御の認識を持って毎日生活しているわけである。これらのことを我々人類に教えてくれたのが最近発生したパンデミック、疫病騒ぎではなかったろうか。

 毎日の生活のなかで、自然災害とか戦争現象などは、それが身近に起きている人たちにとって、生活の安寧はおびやかされ続けることになる。思いだすことであるが、昭和二十年八月十五日、日本が太平洋戦争に敗れ、毎日の防空壕への退避意識から解放された自分は、「あア、これでもう、明日からは空襲から逃げ歩かなくて済むのだ」と、ほっとした安堵感である。その後世の中がどう変わるか、どんな生活が展開するか、など大人の持つ煩悩などははたらき様もないわずか十歳の少年の、今思い出す感覚なのである。

 八十も米寿を過ぎ、いま毎日生きて生活している自分が、毎日の生活感のなかで、何とか食えている、払えている、出会いができている、つまり、雨露が凌げて、生きていられるのが、ありがたい。この安寧感を用意してくれている自然界に、いま感謝の気持ちがいっぱいなのだ。毎月おついたち(一日)には下野市小金井慈眼寺にて般若心経の写経の研修に参加、その都度、我がささやかな願いとして末尾に書き込む、「為世界平和萬民安寧」我が生きる為の煩悩であり、願いである。 合掌